北の大地とそれから私

流罪になりました。

怪文書

学園モノギャルゲーなんかをプレイすると、自身の高校生活と比べて「ああ、これは知らない何かだな」と常々思う。欠けたものの補完ではなく、欠けたものの認識ばかりしている。このハッピーエンドもあのバッドエンドも、私の構成要素じゃない。

 

私の高校生活を振り返ってみると、あれがメリーなバッドエンドなのか、グロテスクなハッピーエンドだったのか、はたまた、名前もつかない、スタッフロールも流れないような分岐失敗だったのかは何とも言えない。そこは登場人物がメタ的に評価するべき場所ではなかろう。
ただ、主人公は悪くないものだったと言っているらしい。

 

毎年春になると、あのお祭り騒ぎのような日々を思い出す。あの頃にとらわれているわけではないが、少なくともあの頃が基盤になって今があることは間違いない。スタッフロールのその先をどのように進めばいいのだろうか。流れていった「スペシャルサンクス:放送室」を見届けて、いったいどうしたらいいのだろうか。

創作というものは、必ずしも終わりがある。補足的なアフターストーリーがあれど、最後まで全て教えてくれるわけではない。だからか人生はヒロインのいないギャルゲーともまた違うらしい。一区切りがついたところで、続編はすぐに始まる。「あぁ、よかった」だとか「クソエンドじゃねぇか」だのと風呂場でぶつくさ呟くところは既に冒頭なのだ。しかも前編のエンディングを引き継いで始まるのだから質が悪い。

ハッピーエンドのその先が見たい。
コヤマヒデカズも言っていたような気がする。そんな蛇足をかなえてくれるのが人生ってやつなんだろう。プレイしなければいけない。有無も言わずに。次のエンディングに向けて。

 

20数年生きていると、薄い人間である私でも幾度かスタッフロールを眺めてきた。何重にも設定を積み上げてきた。愚かにもギャルゲーで人生を振り返り、握りつぶしたルートを確認して、自身がいるであろう位置を知る。詰みを理解する。おそらく、今後出くわす分岐と結果の主語は「私」のみなんだろう。積み上げた設定が、1人でしか掴めない何かばかりを求める私を生み出している。

 

大学生活も少なくとも折り返しを迎えた。あっという間にこの作品にもスタッフロールが流れる。そもそも人生全体で見たら、変動の時期はとうに折り返し、終盤もいいところか。
ここからどうすればいいのだろうかと、再び自問する。すべてを打開するヒロインの登場を求めているわけではない。ただ、地に足をつけて生きることは必要なんじゃないかと思う。鉄の馬にまたがって、両足浮かせてだけいられる時間には限界があることにはとうに気が付いていた。社会に迎合するしかないんだろうか。

 

ひとしきり頭を抱える。
あぁ、やっぱり欲を言えばすべてをぶっ壊してくれるヒロインは欲しい。私もハッピーエンドのその先を見てみたい。夢物語を見せてくれ。

 

なんて、主体性も現実味もない妄想をひとしきりする。妄言の1つや2つくらいいいだろう。既に私には激詰みmyselfエンドしかないんだからさ。だから、妬みつらみが束となった怪文書も作っていいだろう?

どうせ監督出演、全部俺なんだから誰も文句は言えないだろう?

 

 

 

 

遅れながら、誕生日おめでとう。一色いろは
今年はもう、公式からSSが供給されなかったね。もうおしまいなんだね。
散々アフターストーリーがあったんだから、まぁ仕方ないか。でもその先ももっと見たかった。